内田樹「日本で『民主主義の魔法』が精神力を失った理由」

哲学者 内田樹
哲学者・内田樹さんの『AERA』巻頭エッセイ『eyes』をお届けします。 倫理的な観点から時事問題にアプローチします。 * * * 社会人に映画理論を教える。 今期のテーマは「戦後日本が失ったもの」。 今井正監督の『青い山脈』を観た後、なぜ「民主主義の呪い」が霊的な力を失ったのかについて話しました。 『青い山脈』は1949年の作品。 この本は憲法施行からわずか2年後、文科省が「民主主義」という分厚い教科書を全国の中高生に配布した翌年に書かれたものだ。 「民主主義」という言葉が燦然と輝いていた時代でした。 映画の中で、原節子も池部良も、「民主主義」という言葉を、決して汚してはいけない壊れやすい透明なガラスのように扱っている。 民主主義に反対する人たち(軍国主義から脱却していない街のボスや教師)ですら、「民主主義ではない」という非難を恐れて「民主主義」に頭が下がる。 民主主義の呪縛が非常に強力だった時代があった。 現在の日本は民主主義政権の体裁を保っていますが、権力者とその周囲が公権力を私利私欲的に利用し、公共財を私物化する縁故政治の腐敗が見られます。 そしてそれがすでに「部分民主主義」に分類されていることも不思議ではありません。 このような社会では、「民主主義」という言葉をあたかも明るいものであるかのように仰ぎ見る感性は生きていけない。 しかし、なぜ当時、「民主主義」という言葉はこれほど例外的な魔法を発揮できたのでしょうか? それについて仮説を立てました。 敗れた国民には誇るべきものは何もなかった。 明治維新以来80年にわたり、先人たちが営々と築き上げてきた帝国の領土、政治的威信、文化首都は灰燼と帰した。 世界五大国の一角を占める帝国の臣民は飢餓の危機に瀕していた。 瓦礫の中に空っぽになった敗戦国民の手に残されたのは、道徳的に世界でも類を見ない平和憲法と、日本の最先端の民主主義だけだった。 何も誇れるものがないとき、人はそれに執着します。 その少し前に「Awe many」を聞いたときは、かかとをついて直立するのと何ら変わりませんでした。 当時の人々はそれを「民主主義の押しつけを恐れるな」と置き換えた。 内田樹(うちだ・たつる)/1950年東京生まれ。思想家、武道家。 東京大学文学部仏文科卒業。 専門はフランス現代思想。 神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道懐風館館長。近著に『街の帝王』、主な著書に『直感は結構正しい 大国民のための内田樹講座』、 「アジア・フロンティア これが日本の生き方」 ※AERA2023年7月3日号